第二章 元三沢に生きて
今は亡き開拓者たちの印象 相模 清
時も流れて半世紀余り、当時の入植者も次々と姿を消して開拓者としての歴史を知る人も少なく成っております。今は亡き人たちの印象を自分が思い起こしてこの機会に書き残して起きたいと思う。
相模始次氏(相模實君の父親)は鳶職人として働いていた(川崎)当地に来てからも人一倍働き者だったと思う。
大橋 勇氏(大橋正一氏)は製材職工として東京で働いていた。真面目な顔をして冗談話をする誠に子供好きな人であった。大橋正一氏は現在東京に住む。
古川敏明氏(古川治君の父親)は機械のことは何でも知っていた。自動車の修理工をしていたと聞いている。当地でも貴重な存在でした。(初代入植者は古川春吉氏、敏明氏の父親)
渡辺松五郎氏(故内田貢君の父親、保光君の祖父)は東京で警視庁の刑事として勤めていたと言う話を聞いてびっくりした記憶がある。
北沢大助氏(北沢日出男氏の父親)は北海道より二、三年前に当地に来て開拓に入植している。建具職人で倉渕村内に数多く建具を残している。
榛葉寅平氏(榛葉茂晴君の父親)は静岡県生まれ。弓道は段持ちと聞いている。この地に来る時、横浜からリヤカーを引いて十日ぐらいかけて来た話を聞いたことがある。あ人から、脳ある鷹は爪をかくすとは、寅平氏のことだと聞いた。
西村繁三氏(西村旦氏)は元三沢開拓地に対しての功労者の一人と思う。台湾よりこの地に来たと聞いている。
下 仁作氏(下茂七君の義父)はとても朗らか人という印象がある。釜(かま)が有った事がない空(あき)家のヘッツイだといって良く笑わせていたことが印象にある。 とんちのいい下仁作氏であった。
丸山虎吉氏(丸山隆樹君の父親)は私の印象では当地一番の芸人だったと思う。特に数え歌は有名だ。同年齢ぐらいの人たちは良く知っていると思う。 開拓の役員など歴任している。
原田半平氏(原田秋夫君の父親)は当時田植え職人として倉渕村においても有名な存在でした。
住谷代十氏(住谷茂雄君の父親)は一言で表現すれば、豪快な感じの持ち主。元三沢開拓役員も長期に渡り歴任された。(消防士なども歴任されたと聞く)
住谷正男氏(住谷春明君の父親)は物の静かな頭の良い人。私も正男さんとは色々な仕事をしていたので気心の知れた人でした。
岡本七平氏(岡本三平君の祖父)は入植する前の職業は田植え職人と書いてあったという。田植えは原田半平氏と同じ様に上手であった。また、気短な人、我慢強い人、そんな印象がある。
原田とりさん(原田正氏の母親)は元総理大臣福田総理と同じ所の生まれで幼い時は友だちと聞いている。福田氏が「とりちゃんかい、とりちゃんかい」と選挙運動に当地に来た時の話は今でも残っている。
丸山元吉氏は長年に渡り役員など歴任された一人と思います。温厚な人柄入植前(満州)戦地にも行った話も聞いている。
武藤余文治氏(武藤為雄氏の父親)は印象としては口は悪いが、思いやりのある人。そんな感じのする人でした。
原田亀之助氏(原田幸夫氏父親)は印象としては、いかにも温厚な人柄。この人と話をしていればリラックス出来る、そんな大きな人柄を感じた。
原田良太郎氏(原田三男君の父親)は戦時中は海軍兵として、そして元三沢開拓者として リーダー的存在であったことは誰もが感じていると思います。
武藤 潮氏(武藤仁君の父親)は、元三沢開拓が国の開拓成功検査のとき、元三沢開拓組合長として貢献した人。当時、時間がなくて開拓を完了してない家が多分にあったが、全戸が開拓完了済みと元三沢開拓検査を通した。
相模丈二郎(相模清の父親)は大酒飲み力自慢。上毛新聞に出たことで力の丈さんと名前だけは知られた、その分お袋さんが苦労した。
以上20名は初代入植者で、今は亡き人たち(平成14年4月現在)を私が個人的に感じたことを一言で表現した。人それぞれ感じ方も違うと思います 。新しく当地に来てくれた人々のためにこの本を読む参考にして下さい。
また、現在も元気で農業で収益を上げて生活をしている人もいます。元三沢地区発祥からのこの元三沢誌の作成に中心的役割を果たして下さった山田定雄氏初代入植者(山田秀治君の父親)は戦時中は騎兵隊として沖縄方面にいたと聞いていた。
山田さんは元三沢開拓者の歴史を何とか書き残しておきたいと思って色々調べて下さった。又元三沢開拓者の役員としても骨を折って下さった。(平成14年4月現在)原田時三郎氏(原田美喜男君の父親)原田時三郎さんも元三沢開拓に入植してから現在(平成14年4月)まで農業を中心とした生活をしています。元三沢開拓に入植以来、元三沢地区の中心的役割を現在まで果たしている。
住谷新平氏(住谷一之君の父親)も農業を中心とした生活をしている数少ない一人です。住谷新平さんは入植が少しおくれて元三沢開拓に入りました。元三沢開拓の役員など歴任しています。また、第7区(川浦地区)区長なども歴任されています。この地の仕来(しきたり)など良く知っている貴重な存在の人だと思っています。
丸山政四郎氏も初代入植者の一人で、現在少し体調を悪くされて居りますが元三沢開拓が始まって以来、役員など長年に渡って当地のために努力して下さった貴重な人です。
塚越朝己(ともき)氏は、元三沢開拓者として初代の入植者です。現在は東京で生活しているとのことです。
昭和20年代前半、元三沢開拓組合のためにもっとも努力して下さった方と思う。私も個人的に子供のときお世話に成りました。戦時中は空軍パイロットなど歴任し、開拓を去って日本航空に入社。パイロットとして活躍したと聞いています。現在も健在でいると聞いています。
元三沢地区に前から住んでいた方々
住谷松次郎氏(住谷守君の祖父)は温厚な人柄で信頼の厚い人でした。田植え時、雷が鳴るとスゲガサの金具の部分を泥を付けて田植えをしていたことが印象に残っています。
土屋竹雄氏(土屋亨君の父親)は通称熊竹さん。この人の名前を知らない人はいない。色々なエピソードを残しています。
武藤昭二氏(武藤昇君の父親)は世間の物知り、職業はトラック運転手から大工さんとしての経歴の持ち主。
以上3名も今は亡き人忘れることはない人々です。
思い出を綴る 相模 清
住めば都と人は良く話をするが、自分も早や、この地に来て60年に成り、初代の入植者は本当に少なくなって来ています。当時の記憶も薄れてき、元三沢地区の始まりを知っている人たちが元気の内に歴史として残しておきたいと思い、筆を執りました。
元三沢地区は昔、この地方では一番先に栄えた場所と聞いています。あちこちの山の中や川辺に石仏が多くあったことを記憶しています。自分がこの地に来たのは、昭和21年2月でした。当時の記憶では、山、山、山。
主線道路は三沢入口に非水池に通じる道が1本だけ、其の他の道は馬や牛が通るくらいの道でした。家といえば山小屋です。特に引き揚げ者の方の家が目立ちました。昭和21年当時、なにもかも不自由であるが特に食べ物がないことが辛く、今の時代はダイエットなぞと言っているが当時は間違ってもそんなことはありませんでした。昭和21年、自分は小学生で、その頃学校に行く時は着物でワラ草履、特に冬は寒かったことを記憶しています。夜空は、今考えると星は本当にはっきり見えた。目のせいではないと思う。
今の自分の年齢(65歳前後の人)の人は、初代入植者、二代目、三代目の人たちのことを大体記憶しています。今、自分はその中の一人として思い出を語れるのは幸せだと思っています。
この地元三沢にに入植した人たちは、食べ物を作ることが目的で、日本が戦争で負け、この先どう成るかまったく分からない時代でろくな物も食べず、機械はなく、人力だけでこの地を開拓して行ったのである。食べるために横浜や川崎から、自分の親も、榛葉さん山田さんたちはリヤカーを引いて10日前後かけて、この元三沢の地に来たと聞いている。今では考えられないと思う。雨の日も風の日も野宿または、人様の軒下で休みながら…。
日本が戦争に負けたということは大変な出来事であった。今、考えてみれば幸いなことにアメリカに支配されたこと、運が良かったと思う。当時の旧ソ連に支配されていれば今の日本は変わっていたと思う。
倉渕かぞえ唄 北沢 清
一 昔碓氷の鵜渕村、時と時流(じせい)に鵜が流れ、渕がのこれば渕(ぶち)の村、そすりゃ呼び名も渕(ぶち)の里。
二 ある日渕さん嫁をとる、そしてその名をお倉という、かかぁ天下でいばられて、だから今だに倉が上へ。
三 渕の里にも名所ある。実話雑詩にのりました。あれは落合道祖神。
四 つぎに上げるは穴観音、岩の洞窟(ほこら)に珍座(ちんざ)して、べつに御利益ないけれど、上は小栗の城の跡。
五 春はつつじの花が咲き、萌えて喜ばん紅つつじ、意にむせぶが岩つつじ、さよいとししまかどうだんわ。
六 渕を流れる烏(からす)川、そよとふく風心さよさよ
川でかじかの声を聞き、のぼりゃ追分(おいわけ)権田館。
七 右は鳩ノ湯、薬師の湯、忠治地蔵に関所跡、左りゃいずことたずねれば、左りゃ北軽本街道。
八 昔饅頭で拝む月、今じゃ土足で歩く月。月の裏ではございません。これが本当の川の浦。
九 桑の本をば、かき分けて、登り詰めれば沢三つ
陰でなにやらやってるが、あれが三沢のなめっこ屋(や)
十 榎の下をくぐりぬけ、沼の田んぼを飛び越せば、しょろりよじけて、ごつうだあー細い系道(けいどう)梨の本。十一 中原越(こ)し、掘りの沢、四区でちょっくら要をたし、左りながめりゃ山武士(やんぶし)が、右と左にづいとづい。
十二 夏は野山に若葉出て、山で「タラ」の芽、山椒の芽、谷をのぞけば山吹が、所狭しと乱れ咲き。
十三 夏の日尺(ひざし)に日廻りが、秋はさみしや秋桜(こすもす)で、誰を待つのか月見草、呼べど堪(こた)えぬ口梨(くちなし)は、十四 夏の盛りに来る客にゃ、寒い思いはさせません。タイヤチェンは必要ない、雪や氷にゃじゃまさせない。
十五 つぎは川浦小学校、橋を渡ったその先は、俺がふちではございません、これが川浦の西(にし)ヶ渕。
十六 上の山にと登り上げ防(ぼう)の峰をば、杖(つえ)につきこてをながめれば、見えた矢陸の狸坂(たぬきざか)
十七 つぎに私が上げるのは世界只一つ(ずいち)の珍種竹、末(うら)も無ければ本もなく、覗きや山有り沢もある。
十八 こんな珍の竹でさえ「ギネスブック」にゃ載ってません。それはいずことたずねれば、それは川浦の赤い竹。
十九 細い野の道とぼとぼと、月の並木を越した時、家を巻き込む巣が見える、あれが鷹の巣新開地。
二十 ここ迄くればなごやかに、天地満物輪(わ)に成って梅と桜に桃でさえ、お手てつないで咲くでしょう。
二十一蛇渕瀧上鬼娘松(きじんまつ)覗く川屁(かわべり)岩陰に白いやわ肌くねらせて、山の女の鬼(うも)が待つ
二十二秋は嬉やこの山も、栗に、くるみに、またたびにひときわ藪(やぶ)で目を引くは、あれはなだいのやま山女(あけび)。
二十三やがて浅間が化粧すりゃ、朝夕めっきり寒くなり、寒さしのぎに、呑む酒か、ちょいと山々紅をさす。
二十四これはたまげた驚いた、恋をしたのじゃないでしょか。黒でなだいの鴉(からす)でもこの時ばかりは紅をさす。
二十五秋も終わりて冬くれば、暑い思いはさせません。蚊取り線香は必要ない。アブや蚊などに食わせません。
二十六つづりゃこの先まだあれど、お後先生お待ち兼ね。よせよやめろと言う前にちょいと一伏(ぷく)御免(ごめん)なさい。
当地に居住するに至った理由について 大河原 充
以前、食品流通業に携わっていた際、所属部署が青果部門であった関係で、仕事を通じて何度も倉渕村に足を運ぶ機会があった。その都度、美しい自然や昔ながらののどかな田園風景に魅せられていた。
就農希望の念が昂じて、会社を辞し、いったんは、実家のある富岡市において就農したが、農地の宅地化等、富岡では農業を継続して営むには無理と判断し、移転先を探していたところ、以前の取引先であった鳴石の佐藤茂氏にお世話いただいて現在に至っている。
前職が青果のバイヤーであったので、日本全国、北から南まで、数多く農村を見聞する機会に恵まれたが、倉渕村の風景が私にとって一番美しく感じられたことが当地に居住するにいたった大きな理由である。
縁あって… 大澤 比登美
初めて倉渕村に来たのは、平成元年のことです。当時、木工仲間五人と関東一円を対象に土地捜しをしていた時です。最終的に縁あって残ったメンバーは私一人になってしまい、田村さんと佐藤さんも土地を捜しているということで、新たにメンバーになってもらいました。元三沢に住んで早いものでもう、ひと昔以上の年月が過ぎ、私の髪も白いものがいつの間にか増えました。これからもどうぞよろしくお願い致します。
夫が〈我が村〉と旧友に自慢 竹中サエ子
土屋竹雄、通称〈熊竹〉の娘として生まれました。元三沢で幼少期を過ごしました。横浜に就職し結婚。2人の子供を育て気がつくと、40年という歳月が経っていました。その間、元三沢のことは忘れたことはなく、新緑の季節や秋の紅葉の頃になると、美しい山々や小川のせせらぎを思い出して、いつかは田舎暮らしに戻りたいと思っておりました。
二人の子供が独立し、夫も還暦を迎え、永住の地を探すつもりになっていた所へ弟から現在居住しております土地が売りに出ているという話を聞き、すぐに購入を決意しました。
この土地は幼い頃住んでいた家の前の小高い丘の畑でした。子供心に『大人になったらこういう景色のいい場所に家を建てて住みたいなぁ』とぼんやり思っていました。
田舎暮らしを本気で考え始めた時期に、この土地に再びめぐり会えたのは、縁があったのだとつくづく思います。三年前にここに移り住み美しい山や川、きれいな空気は昔と少しも変わることなく、元三沢に暮らす人々の暖かさにふれ本当に幸せだと感じています。
能登出身の夫も、元三沢を私以上に気に入り〈我が村〉と旧友に自慢している程です。
これも元三沢の自然を守り発展に貢献されてこられた皆様のお陰と心から感謝しております。
元三沢に住むようになって 佐藤 朝昭
私は鳴石の佐藤茂さんのところで研修をしてきたのですが、そこにきていたパートのおばさんの紹介で今の家に住むことになりました。
元三沢に住むようになって四季の移り変わりを敏感に感じるようになりました。街に住んでいても細かくみると季節の変化はありましたが、ここに来るとそのスケールが違うような気がします。
新緑や紅葉の時期はもちろんのこと、春先の霧の浮かぶ山々や夏の青い空と白い雲など、ボーっといつまでも見ていたい気がします。私には小さい子供がいますが、子供の目にはきっと、もっと広く、大きく見えるんだろうなぁと思います。
元三沢に根をおろして 小坂啓明、景子、拓実
平成9年11月に有機農業をするために倉渕村に引っ越して来ました。鳴石の「くらぶち草の会」の会員としてお世話になりながら、主にレタス・きゅうり・大根などの野菜を東京の業者や生協、地元スーパーなどに出荷しています。
元三沢には平成10年11月に相模清さんのお宅を借りられることになり越して来ました。元三沢の方々には、いろいろよくしていただき、ここでの生活にもずいぶん慣れてきました。
この度、縁あって、下平さんのお宅を譲っていただけることになり、元三沢に根をおろして頑張っていきたいと思っている所です。
寛容な風土 竹渕 進
倉渕村へ来て、新規就農したのが1990年の春。それまでは東京で、私は福祉施設、妻・智子は出版社で働いていました。
出身は、私は吾妻町、智子は東京都板橋区です。三ノ倉の石津に家をお借りして、最初は鳴石や小高、上ノ山、そして元三沢で田畑をお借りしていました。
当時元三沢の班長さんだった武藤昭二さんに、飼育所が空いているので住めるのではないか、と言っていただき、農協へお願いして借りることができました。元三沢に引っ越してきたのが、1991年の秋です。
元三沢は、自然に恵まれ静かで、ほんとうに良いところです。また皆さんとても良い方で、私たちのような村外から入って来た者もまったく分け隔てなく受け入れていただきました。
こういった寛容な風土が、元三沢に多くの方が移住してくる理由のひとつだと思います。飼育所には3年ほど住み、その後は土屋享さんのご好意で、土屋さんの旧宅をお借りしています。
私の理想郷 恵比根 育夫
都会からそれ程遠くなく、こんなに自然が残り人々が昔ながらの生活を営んでいる処が他にあるだろうか。 宮沢賢治の言うエスペラント語のイーハトーヴそのものです。
私、生まれは東京。代々の江戸育ちです。空襲で家を失い茅ヶ崎へ。
小学生の頃、夏休みや冬休みに入ると戦前の東京でも祖父、祖母が地方出身の人が多く、学友は田舎へ遊びに行くのが大半でした。クラスで二、三名だけが行く処がなく東京中の親戚をたらい回し、その頃からいつかは田舎をと願っていました。
また、勤めも40年近く石の塊の丸の内勤め、20年以上前から60になったらなにが何でも会社をやめて田舎暮らしをと。趣味のバイク・レースで各地を転戦しながら、地元主催者の顔なじみに紹介を受け、探しましたが望む所がなく、7年前偶然この地を知り、榛名連山を高崎、前橋、渋川、中之条と一回りしてもこんなに美しく望める処は他にありません。その上元三沢の人々の温かさは何よりもの宝です。
一目惚れでその場で決断し安住の地といたしました。
新しくきて「ここは良い処だ、良い処だ」と言って居りますが、この地に代々お住いの方の並々ならぬ御苦労を想うと軽々しく口にするものではないと思って居ります。
歳を重ねていますが、枯木も山の賑わいとさせて戴きたいと思います。
あとがき
時代は昭和から平成と大きく変わり、日本も高度成長期に入る頃から農業を中心とした生活以外で利益を得る農家が多く見られるようになりました。
当地でもタイヤ工場が入って来たりして(昭和47年から58年)、現在では農産物で利益を得て生活をしている戸数は誠に少ない。また農業経営の仕組みも大きく変わったことも事実で、時代の要求に合わせて有機栽培や無農薬という新しい農業が進出してきています。機械力と大量生産、これらのことが出来ないと近代農家は成り立たない、そんな時代となっていると思う。
開拓時代は食糧増産を目的として農業に励んで生計の中心を担っていたが、現在は生計を維持するのにどんな職を求めて生きていくか…別の意味でむずかしい時代でもあると思っています。
これからの若い世代や他方から当地に来られた方々、この元三沢の地でそれぞれ目的に向かってがんばって下さるように期待します。 平成14年4月 相模 清
元三沢開拓史を作成するにあたり
元三沢開拓史を作る会一同時の流れは早いもので、振り返ってみたらあれから半世紀以上も過ぎています。
当時の記憶も薄れてしまわないうちになんとか元三沢の歴史を次の世代に伝えたい。また自分でもこの地に生きた証として残していきたいと思い、山田定雄さんが主となって綴った開拓史を基に、相模清さん、武藤為雄さん、原田時三郎さんを始め、七班全員が古い写真や資料を探してくださったり、慣れない文をしたためながら当時のことを記憶の糸をたどり協力して作成しました。
集められた原稿や資料を、倉渕村役場の生涯学習課の方々、それに内田千代子さんや竹渕智子さんがパソコンファイルに変換してくださいました。
こうして皆様一人一人の協力を得てできあがった、文字通りおらが元三沢の開拓史です。これから先、この元三沢の歴史を次の世代の人たちが引き継いで、さらに未来の元三沢を創っていってもらいたいと思います。
編集を終えて
山田定雄さんが「本を作りたいから、ワープロを教えて」と、私に連絡をいただいたのが三年ぐらい前になるでしょうか。最初、何のことはわからず、「お年寄りの手習い」なのかなぁ…程度しか理解できませんでした。
その後、忙しさにかまけてそのままになっていたところ、この春、相模清さんが「山田さんはどうも本気で本を作る気でいるようだ。原稿もたくさん書いていた」と話してくれました。
一昨年もパソコンを教えてくれと再度頼まれましたが、「覚えることが多いので大変ではないでしょうか?」と話したら、では原稿をワープロで活字にしてもらい、それをコピー機を買ってコピーして製本するという。七十歳をとうに過ぎてもその熱意と気迫に感動し、編集を引き受けた次第です。
そして、そのとき間に入っていろいろと骨を折ってくださったのが相模清さん、武藤為雄さん、原田時三郎さんたちです。
「どうせ作るなら、もっと資料を集めて元三沢の全員が参加している元三沢開拓史にしよう!」と、皆さんは忙しい合間を縫って、班長日誌や覚え書きのたぐいを見ながら原稿を仕上げていきました。
それらの原稿と向き合うこと数ヶ月。最初は旧仮名使いなどを修正し、なるべく読みやすい文にしながらも、山田さんをはじめ、皆さんの個性や心意気が損なわれないように配慮をしたつもりです。
私事で恐縮ですが、私も元三沢に生まれて四十五年、おぼろげながらに覚えている水道管の敷設工事や、私を可愛がってくれた今は亡き近所のおばさんやおじさんが自分の脳裏の中に懐かしさとともに蘇ってきました。
過去という絶対に戻れない時間の流れ…。その時々の出来事を、思い出という記憶の包装紙に包みながら、私たちは『今』を一生懸命生きています。
元三沢開拓の歴史は、開拓という文字通り何もない無からの苦しい出発でした。よそ者の集まりという意味からか、一部の心ない周囲からは「就農、就農」と嘲られたこともありました。
しかし一心に未来を信じて、黙々と一鍬一鍬耕しながら築いていった先人たちの心意気が、この本を編集させていただいてヒシヒシと伝わってきました。
私たちの祖先がそれぞれ集まって築いたこの元三沢という豊かな大地を礎に、これからも隣近所が助け合って生きていくことが、ご先祖たちからのフロンティアスピリット(開拓者精神)を受け継ぐことではないでしょうか?
また、この本がその激動の時代を生きてこられた先輩方の思い出の包装紙を開く一助となれば幸いです。
編集を手伝わせていただきありがとうございました。
岡本 三平 (2002/11/11 )